歌手「岬道夫」-1


2 青春くもりのち晴れ

焼け跡に立って-2

世の中は一変して、東京にGHQ(連合国軍最高司令部)が置かれ、地方都市にもジープを走らせる進駐軍の姿がちらほら見えはじめ、ラジオや巷にジャズや流行歌が復興してきた。
私上田に帰るとしても四月の新学期からだと思い、約半年の聞ここで生活することにした。
初めて過ごした山形の冬は長くて、鈴川は道もわからぬほどの雪に埋もれた。
年が明けてから、新聞広告で楽団員募集、仕事は映画館のアトラクションという記事が目にとまり、どうせ暇だから応募してみようと思った。
こちらはまったくの新人、それが順番を待って、一曲歌ってみたら合格してしまった。
その場で主催者から要請され、私は無理やり審査員の席に座らされていた。
歌手「岬道夫」-1

山形でいちばんといわれる映画館・霞城館で、さっそく私は歌うことになった。伴奏はギターの工藤源一さん、ヴァイオリンの木村晃治さん、アコーディオンの結城貞一さん、それにドラムとピアノが入ってクインテットの編成だったが、名前はフリーアンサンブルと名づけられた。
私は「コロラドの月」「谷間の灯」などを英語で歌い、日本の歌は「波浮の港」などを歌った。
応募してきた若い女性歌手も歌ったが、私の歌には進駐軍の兵隊がヤンヤの喝采を送った。
英語の発音は成城中学時代エリック・ベル先生から直伝のものだし、挨拶や歌の解説も得意の英語でやったから、大受けに受けた。出演料は安かったが、私のストレスは一気に解消して人生がバラ色に輝いた。
また戦没道家族慰安会では、私の歌に山形随一の人気芸者・金太郎が賛助出演で「波浮の港」に創作舞踊をつけて踊ったこともあった。
こんなことになろうとはうすうす予感していたので、私は自分で流行歌手らしい「岬道夫」という名をつけて世間を欺いた。
ところが、わずか三か月ほどで、この仕事をやめなければならないことになった。
偽名を使っていたにもかかわらず、昔わが家で働いていた人が、声野さんのバッチ子(末っ子)が映画館で歌っていると親戚にふれ回ったからである。
ほんとうは生まれも育ちも東京の私だが、父の出生地、母の疎開先という緑で山形児出身ということになっている。
(注)芦野宏はのちに喜劇俳優・伴淳三郎の跡を継いで、芸能人山形県人会の二代目会長を務める。伴淳さんは「あゆみの箱」を創設し、のちに森繁久弥会長にバトンタッチされた。芦野は理事就任と、チャリティ活動により二十周年表彰を受けた(昭和五十七年)。